普通という概念が消滅した世界で

ある人から勧められて読んだ上原隆さんの『友がみな我よりえらく見える日は』(幻冬社アウトロー文庫)という本がとてもよくて、巻末に収録された村上龍さんによる解説がその魅力を端的に表現してくれていたので、誰にともなく(未来の自分に対して?)紹介しておきたいと思う。

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ものを書く者として、メディアに関わる者の端くれとして、そして現代を生きる人間の一人として、向き合わないわけにはいかない問題を(1999年の時点で)提起してくれていると感じた。少し長いけれども、以下に引用する。

 

たとえば「普通の女子高生」と言うとき、わたしたちはどういう女子高生をイメージしているのだろうか? 勉強もクラブ活動も活発にやって、たまには親に反発したりしながら、恋愛の予感に胸をときめかせ、大学のキャンパスや将来の結婚や仕事のことを考えている、そういうのが「普通の女子高生」だろうか?

 

「普通のサラリーマン」はどうだろうか? 郊外の一戸建てに住んで都心のオフィスに電車で通って子供が二人いて休日には家族で遊園地やピクニックに行き会社の帰りには焼き鳥屋で一杯飲んで上司や部下に気を使って、それでも自分は中流だと考えている、そんな「普通のサラリーマン」が今どこにいるというのだろうか。

 

そういった「普通」という概念は、高度経済成長の時に形成されて、驚くべきことにまったく変化していない。普通という概念の崩壊に際して、この国のメディアは「多様化」という言葉で対処しているようだ。多様化というのは、あるモデルとなる「原型」があってそこから派生するもの、という暗黙のニュアンスがある。完全に別のものに変わってしまっている場合には、多様化という言葉は本当は使えない。それでもこの国のメディアは、自分が理解できないものに向かい合うと「普通」と「多様化」で対処しようとする。

 

普通の人のことが普通に書いてある、とわたしはこの本のことを評した。わたしが言う「普通」とは、有名ではない人、メディアから取り上げられることのない人のことだ。「普通に書く」とはどういうことか? 一切の先入観を排して、自分が見たことだけ、聞いたことだけを書く、ということだ。前述したように、普通という概念が崩壊しているにも関わらず、メディアは頻繁にその言葉を使っている。それは単に便利だからだ。

 

普通というカテゴリーが安心できるものだからだと思う。普通という言葉で括ることができる人々がいる、という一種の求心力のために、メディアの側も、メディアの情報を受け取る側も安心できる。

 

だが、「普通」というこれまでの概念はもうどこにもない。それは多様化したわけではなく、近代化の終焉と共に消滅したのだ。だから「普通」というカテゴリーの中で、「みんなと同じように」生きていける人は誰もいない。一人一人がそれぞれ違った方法で現実と向かい合わなければいけない。一人一人が、その人の属性、資源を利用して生きていかなくてはならない。そして、現代においては、そのことが「普通」なのだ。

 

僕も概ねそう思う。でも書き手としてこれを受け入れると、記述方法は自ずと限られてくるような気がする。僕にこの本を紹介してくれた人は書き手としての僕にエールを送りつつ、「第二の上原隆になってはいけない」と釘を刺した。何か新しい発明か発見ができたらいいけれど、僕にそれができるだろうか。