正しさはいらない。ただ美しくありたい

忘年会とも年賀状とももう何年も無縁の人生を送っているくらいで、年初に一年の抱負を述べるなんて柄でもないのだが、SNSでたまたま見かけた知り合いの投稿に「お、これいいじゃん」と思える言葉があったのでそのまま拝借し、一年の抱負とすることとした。その言葉というのがこれ。

 

「“美しさ”と“楽しさ”を追求していけば人は必ず喜んでくださり、人が喜ぶことをすれば仕事は全てうまくいく」

 

投稿していた知り合いもそのまた知り合いから聞いた言葉だとだけ書いていたので、元が誰の言葉なのかも、その意味する本当のところもぼくに知る由はない。そもそも「◯◯さえしていれば必ず全てうまくいく」なんてものすごく都合のいい話ではあるのだが、本当にそれでうまくいくかはこの際それほど重要ではなくて、このような考え方それ自体が楽しく、そして美しいと思った。だからぼくはこの考えを「信じる」ことにした。

 

よくよく考えてみるとぼくの人生はこのようにして美しさや楽しさを「信じる」ことの集合でできている。自分の生き方を決めるのにどちらが正しいかとか、どちらの方が成功する確率が高いかといったことはあまり重要でなかった。それよりはどちらの道を進むのが楽しそうか、どう振る舞うのがかっこいいか、どうすれば退屈せずに済むか、そういったことを重んじてきたように思う。それも、考えられる可能性をひと通り洗い出して比較検討するといったことではなく、もっと場当たり的に、直感的に何かを選びとってきた。それがぼくの言う「信じる」ということ。たとえば小説から、誰かのインタビューから、お気に入りを掻き集めてブリコラージュ的に自分を創り上げていく。そうしたひとつひとつに正しさはいらない。それこそ美しさとか楽しさを他ならぬ自分自身が感じ取れればそれでいい。というかそれこそがいい。

 

自分以外の誰かを動かすためには客観的な事実や科学的な根拠を必要とするシチュエーションがあるかもしれないが、そういうもので説明した途端にそれまではとても面白かったものがつまらないものに変わってしまうというのはよくあることのように思う。誰でもが理解できるものに面白いものなんてない。仮に誰かを動かす必要が生じたとして、その時にも客観的な事実や科学的根拠などには頼らずに、自分自身の「妄信」のパワーを原動力に迫力とハッタリで押し通す自分でありたいものだ。美のイデアは存在しない。ぼくはぼくの信じる美しさや楽しさを人生をかけて表現したい。

 

そもそも成功するか失敗するかというのは人生における最優先事項にはなり得ない。なぜなら結果というのは到達「点」であるから一瞬のことでしかなく、人生の大半はそこに至るまでのプロセス=「線」でできている。結果なんてどうでもよいとまでは言わないが、少なくともプロセスを犠牲にしてまで手にする価値のある成功など存在するとは思えない。

 

サッカーは相手よりも多く点を取ることを目指すスポーツだが、「美しく」点を取ることを目指さないサッカーに価値はない。観客のボルテージは確かに点が入った瞬間(あるいは勝利が決まった瞬間)に頂点に達するが、試合時間90分の大半は得点以外のシーンである。そもそも美しくあろう、楽しさを表現しようという意思の見られない90分に金を払う価値があると言えるだろうか?

 

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ところで、新年初プロレス観戦となったFightClubPro 来日初公演@後楽園ホールはとても素晴らしい興行だった。選手やスタッフはもちろん、観客も含めてそこにいる全員が主体的に楽しい空間を作ろうとしているのが伝わってきた。CCK、オージーオープン、日本人選手もみな最高だった。そしてメインのデスマッチ4wayはその全てを超えてきた。里村明衣子ありがとう。ジミーハヴォックありがとう。世界のプロレスをもっと体感したいと思った。今年のもうひとつの目標は海外のハウスショーを見に行くことに決まった。